今回は数学そのものというより、数学教育について考えたいと思います。
野球は小学生の頃から好きで見ていますが、スピードガンが登場しだして間もない頃、巨人のエースだった江川や西本でも140kmそこそこの球速で、結構早いなと思ったものです。今では高校生でもこの程度のスピードを投げる人はざらにいます。ついこの間、夏の高校野球選手権大会の予選で160kmを記録した高校生がいました。
高校時代の江川…この頃が一番速いと言われましたね。
西本聖…雑草から這い上がったエース
無論、昔でも150km台のストレートを投げていた投手もいましたが、明らかに現在のほうが球速の速いピッチャーは多いようです。
スポーツは現在のレベルが一番高いのではないでしょうか。体操の鉄棒など昔ムーンサルトが初めて登場してから考えても信じられない技で競い合っているではありませんか。
内村航平の鉄棒…人間業ではないですね。
教育の世界でも実はかなりの進歩が見られます。数学の本など私が高校生の頃に比べるとものすごく分かり易く、しかもレベルに応じていろいろな種類の参考書や問題集があります。
またただ単に本を読むというだけではなく、ネットを通じての講義、DVDなども充実しています。わからない点はネット上で質問もできます。
進歩はいつも、予備校などの激烈な競争にさらされている教育機関から生まれています。競争のないところでは、進歩のスピードは遅いように思われます。皮肉なようですが、大学受験に失敗した生徒たちは真剣に勉強します。その人たちを教える教師は教えることに情熱を注ぎます。応えてくれる人たちがいる訳ですから。
教えるほうも、教えられるほうも厳しい競争にさらされていますからそこから進化した教え方が生まれるということなのでしょう。
私などから見ればうらやましくてたまらない現在の教育環境なのですが、生徒の数学力の低下が叫ばれています。
ゆとり教育が犯人のように言う論調が多いのですが、果たしてそれだけでしょうか。これはつまり教育に関する情報が多すぎて、たとえて言えば食べるものがたくさんあり、どれを食べたらよいかわからない飽食の悩みという側面も無視できません。
たくさんの食べ物があるから、ちょっと食べてはこれより旨いものがあるのでないかと目移りして、いろいろなものを食べようとします。でもどれも完全に満足するものはない。
私どものように多少なりとも飢えていた時代ではなさそうです。私が現在をうらやましいと思うほど、生徒たちは現在が恵まれているなどとは思えないのでしょう。
保護者の方も、どの塾が良いのだろうとか、どの本が良いのだろうとか、熱心な人ほどかけずり回ります。
<この先少し「数学に感動する頭を作る」(栗田哲也)から引用します。>
中学から高校にかけてやらなければならない数学の量はたかが知れたものです。たくさんの情報を集めて、それで数学ができるようになるというものではありません。
むしろ、数少ない素材をうまく組み合わせる方法を知っている人が数学のできる人なのです。
ですから、何百という公式や定理を覚えるよりも(つまり情報をたくさん得ることよりも)、少しの公式をどうやって使うか深く考えたほうができるようになるのが数学です。
もちろん数学という学問も日進月歩していますが、こと高校までの教育数学に関する限り、昔のカリキュラムで学んでも、今のカリキュラムで学んでも、大差ありません。 …引用終わり
参考書などはこれが自分に合っていると思えば、それをやり抜くことです。また塾なども同じです。信用できると思ったら、とことん信用してください。疑問があったらすぐ相談することです。
どうもこの国の教育は極端から極端に走るような気がしてなりません。教育そのものは必ず進化しているはずですから、腰を落ち着けて勉強することです。特に数学などの理科系の勉強にはそれが必要です。
実は今回は前回の最後に少し述べた戦後の平等教育と数学について考えるつもりだったのですが、これはまたあとにします。