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合格発表の日

カテゴリ : 雑感

 今日は3月19日(水)県立高校の後期選抜試験合格発表の日だ。合格していたらとにかく電話しろと言ってあったので、全員午前中に電話してくる。みんな合格していた。2名ほど少し心配な生徒がいたのだが、よかった。

          伊勢高校1
 
   毎年、後期選抜の合格発表が近づくと、どうにも落ち着かなくなる。当日連絡をなかなかしてこない生徒がいると、だめだったのだろうかと不安でたまらない。恐る恐る家に電話すると、「あっ先生、受かっとったよ。」「馬鹿者!はよ連絡せんか。」となる。今年はそんな不届きものはいなかった。

          宇治山田高校正門

 どうやら今年も全員第一志望合格といってもよさそうだ。今日は美味しいお酒が飲める。


 近年公立高校はヤマが2つある。前期選抜の合格発表の日と後期選抜の合格発表の日だ。昔は、前期選抜という制度はなく、推薦入試だった。スポーツ関連の生徒が多く、普通の生徒にとって今の後期選抜試験が入試であった。



 思えば随分長い間、高校受験と付き合ってきたものだ。最初の頃教えた生徒は今は40代前半になっている。この間、伊勢高の卒業者名簿を見ていたら、教え子が教師になっている。また三重高校の6年制の教師も教え子だった。年はとりたくないものである。




 ただ、私自身は何も変わっていないように感じている。鏡を見るとゾッとするのだが。生徒に対しても、「今年は一番上手く教えられた、去年の生徒に悪いなあ。」と毎年のように思うのである。これがあるからまだやっていけるのであり、毎年同じ様なことをやり出したら、引退をしなければならないという事だろう。そういう意味ではまだまだ若い。まだ熱い。




 学校の教師にしろ、塾の教師にしろ、旬の年齢があるそうである。私はもう旬ではないようだ。こういう常識が私は大嫌いである。旬の年齢でもくたびれた教師もいるし、その年齢を過ぎていてもまだ十分精神年齢が若い教師もいる。




 とにかく、今年の塾生は全員いきたかった高校にいける。本当によかった。生徒のみんな、保護者の方、学校の先生方、塾関係の仲間…みんなに感謝である。

2013-03-19 22:10:38

カテゴリ : 雑感

  8月いっぱいは夏期講習で忙しく、ブログを書く事はできないだろうと思っていたのですが、9月 ももはや10日になってしまいました。

 プライベートな事はここには載せないでおこうと決めていたのですが、今回自分の心の整理のために少しだけ書きます。

 9月5日の早朝、母が他界しました。94歳でした。まあ大往生といっても良いのでしょう。ケアマネージャーの方を必要としてから8年程度は経ちますので、かれこれ10年程度は目の離せない状況だったように思います。

 要介護1~5全ての認定を経験させてもらい、ヘルパー、訪問介護、デイサービス3カ所、ショートステイ3カ所、入院4回、と考えてみれば多くの施設や人たちにお世話になりました。

 基本的には在宅で介護した事になります。最期の3か月は病院でしたが…。

 母は脳梗塞が主な原因なのでしょう、認知症が徐々に進み本当に少しずつ少しずつ自分の事ができなくなっていきました。

 教科書どおりの介護をするには実の息子というのは血が濃すぎるようです。母一人、子一人の家庭で育った私には、何でもできるスーパーマンのようだった母。茶目っ気もあり、天然なところもあり、とにかく人に好かれた母。また自分一人で息子を育てなければならないという気持ちからか、人には絶対頼らない母。

 そんな母が、自分の事が何もかもできなくなっていくのを見るのは本当に忍びないものでした。認知症の人にはこんな接し方をしなければならない、とわかっていても、私が幼いときからの母の元気な姿を見ているものにとってはそれは大変難しく、つい認知症が進んでからの母の言う事を否定する言葉が口を突いて出てしまうのです。

 いくら危ないからといって、自分の家(母は一人で別棟の離れに住んでいました)から出られないように家の外から鍵をしたり、もっと認知が進んでくると部屋から出られないようにしたりとか、仕方がないとはいっても大変つらいものがありました。    警察に捜索してもらったりもしました。またここではとても書けないような事もよくあり、その処理を夜中に一人でしているときなどは涙が溢れそうでした。自分の肉親であるから、元気な頃を知っているから、余計に感情に迫るものがあったのでしょう。

 幸いな事に妻が献身的に手伝ってくれ、大変ではありましたが、嫌だと思う事はありませんでした。二人でやれたから、また二人ともまだ若かったので自宅で介護できたのだと思います。彼女にとっては夫の母ですからある意味冷静に介護ができたという事があるのでしょう。私よりも優しく接してくれていた場面も多かったように思います。

 随分悩んだ末、最期の1年半ぐらいは「胃ろう」になったのですが、結果として母を苦しめるだけになったのではないかと、思ったりもします。

 息を引き取ってから自宅に帰り、一晩母のそばにいるとき、母の顔は眠っているようでしたが、この10年の年月というものがどうしても顔に刻まれているようで、たった一人母の横にいるのがいたたまれなくなりすぐ隣の部屋で過ごしてしまいました。

 この10年というものは、「もうそんなになるんだ。」という感覚です。母のために何が一番よいかを考えて一応やってきたつもりなので長かったとも思いません。ただ、今は何とも言えない虚脱感におそわれています。やらなければならない事もまだ山のようにあるのですが…。

 いくら書いても自分の気持ちが整理されるようでもないのでもうやめます。ただ今、母の遺影は18年前の写真となっており、その前に座っていると若い頃が思い出され、楽しかった事を話しかけられるので、心の中に母がいる感じです。きっとしっかり見守って支えてくれるものと思います。

2012-09-10 15:37:23

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