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国語 その5

カテゴリ : 国語

国語 その最後に
 前回のその4は具体例がなく、難しかったかもしれません。読解力というものを数学の問題でも解くように解明しようとしたのが原因です。難しく考えなくても「読解力」とはただ単に、書いてあることから言えること、を理解すればよいということです。前回に例を挙げてといいましたが、よろしければ下記の本をお読みください。国語の読解についてたいへん分かり易く書かれています。具体例も豊富です。

           



 今回、国語について改めて考えると、「国語の読解力はどうやってつけたらいいですか。」という質問は、たいへん答えにくい質問であることがよくわかりました。「読書をしましょう。」とか「新聞を読みましょう。」とかは、相手のことをよく考えていない答えだと思います。



 このあたりのことも上記の本で詳しく書かれています。参考にしてもらえればと思います。



 国語の読解はすべての教科に深く関わっています。例えば天体について興味を持って独学しようとすれば、本を読まなくてはなりません。歴史に興味があればやはり本を読むでしょう。そこに何が書かれているか正確に読み取ることができるだけで、先人の知識を自分のものにし、世界が広がるのです。



 また「声に出して読みたい日本語」や「理想の国語教科書」の著者である齋藤孝先生は、国語能力こそ、社会人にとって最も重要なスキルのひとつだとおっしゃっています。



 国語能力(現代国語の読解力)がある人は、現代の溢れる情報の中から、その情報の意味や要旨(内容の主要な点を一言で言い表したもの)が読み取れるということで、「情報処理能力」があり、ビジネスパートナーとしては最適なのだそうです。




 解りやすく言えば“理解力に優れた人”とでも言えるのでしょうか。国語能力の高い人には一言で理解できることも、国語能力の低い人には言外の意味が理解できなかったりして一から十まで説明しなくてはなりません。このあたりのことをいっているのだと思います。




 
 いろいろな科目の中でも国語を真っ先に取り上げて考えてみたのは、「社会に出て役立つ科目は?」といわれた場合、確実に役に立つ科目であると思ったからです。ただ基本的な語彙力さえあり、読解とはどんなものかがわかっていれば、正当な読み方というものはあります。接続語や指示語を確実に押さえる、キーワードを把握する、文末の表現などにも注意を払う、いいたいことは形を変えて繰り返されたりする、等々。




 中3の夏休みからは、私なりに経験を積んできた読解の仕方を伝授したいと思います。最後はコマーシャルになってしまいましたが、このようなプログで授業をする訳にもいかず、国語の重要性と読解とはどんなものか大体わかってもらえたらうれしい限りです。



 国語はこれで終わりですが、また違う科目についてもいろいろ考えてみたいと思います。

2012-06-23 22:03:10

国語 その4

カテゴリ : 国語

読解力…客観性と論理性

 中3になると社会は公民を学ぶことになっている。その公民で基本的人権について学習するのだが、基本的人権のベースとなるのは個人の尊重と法の下の平等だ。(平等権…憲法第13条、14条)このベースの上に自由権、社会権、参政権などがある。


  人類の歴史の中で、科学技術は信じられないぐらい発達したが、自由権や平等権が世に認められたのは18世紀、社会権に至っては20世紀になって初めて認められた権利だ。平等権や自由権はアメリカ独立戦争やフランス革命をはじめとする多くの人々の犠牲の上に勝ち取られた権利であり、社会権などは第一次世界大戦で200万人もの人々の命が失われた後に初めて認められたものである。
            
            基本的人権
            基本的人権の構造

 さてまた国語の読解とは関係のないような話から始まったようであるが、読解力が何であるかと考えたときに、この基本的人権の構造を考えるとわかりやすいと思ったからである。読解力のベースとなるのは「言葉の共通性」だ。


 
 例えば買い物に行って3000円の食料品を買ったとしよう。このとき3000円という金額が意味するものが売る方、買う方、双方にとって同じだからやりとりが成立する。つまりお互いが「円」をお金の単位として認識しているから買い物ができる。買い物が成立する=貨幣単位の共通認識がある、読解が成立する=双方(筆者と読者)に共通する言葉がある。ということだろう。『地雷危険』という看板があっても、地雷や危険という意味を共通認識していないと看板の意味はない。



 そのベースの上に客観性と論理性があるのが読解力だ。客観というのは主観の反対の意味だ。じゃあ主観って何だ、となると「主観」=「主」+「観」。「主」は主人公の主、自分の人生の主人公は「自分自身」、つまり「主」は自分自身の意味。また「観」は観察とか、観測の意味。つまり「みる」ということ。となると「主観」は自分から見たものの見方、感じ方ということになる。

 
すると「客観」=「客」+「観」。「客」は、お客さんということは「相手」、自分以外の相手、あるいは第三者。となると「客観」は自分以外の人のものの見方や感じ方。自分以外の人がどのように見るか、どう感じるかということになる。



 ある人に特定の考え方やその人自身だけに通用する、あるいは人それぞれで異なる感じ方や判断基準を「主観的」という。その逆で、誰から見ても同じ評価が下される、特定の人の感情に基づいていない様を「客観的」という。客観的な性質、客観的であることが「客観性」だ。



 文章というものは、自分の考えを相手に主張したり、伝えようとするときに書かれる。だから相手は筆者の主張すること、伝えたいことを、客観的に正確に読み取ることができなければならない。文を読んでどう感じるのかは自由であるが、それは「主観」であり、国語の問題にはならない。人がどう思ったかについて点数をつけることはできないでしょう。それに対して「この文章は、誰から見てもこう書いてある」ということについては正解と不正解は明確に出るはず。

 


 またこの「客観性」(誰から見てもこの文章にはこう書いてある。)を主張しようとするためには「論理性」が必要だ。つまり「論理的」であること。「論理的」というのは「筋道が通っている。」「矛盾したところがない。」「つじつまが合っている。」ということで、つまり誰が見ても納得がいく=客観性がある、ということになる。「客観」と「論理」は表裏一体で、論理的であれば客観性も持ち合わせていることになる。



 かなり難しい話となってきたが、『裁判』を考えてもらうとよく分かるのではないだろうか。ある容疑者を犯人と断定するとき、「おまえの顔、俺嫌いだ。だからおまえが犯人だ。」好き嫌いは主観であり、こんな事で犯人を決められたらたまらない。「動機がある」「証拠がある」「アリバイがない」と論理的に事を運んで客観的に犯人を特定するはず。

          裁判所
          裁判所
          
 「言葉の共通性」をベースとして「何が書いてあるか」を論理的にいうことにより、「客観性」を持った読み取りができるのです。「どう感じたか」で読解をしてしまうと収拾のつかないことになります。


 今回は文章に即して具体例を挙げながら説明できなかったのですが、次回頑張って例を挙げてやってみようかなと思っています。またどうすれば、この「読解力」が身に付くのか、その訓練については、いろいろな方法があるようです。次回にいくつか紹介します。

2012-06-20 18:41:49

国語 その3

カテゴリ : 国語

 「読解力」という前に

 コンピューターの世界はまさしく日進月歩である。私はコンピューターの自作が好きなのであるが、半年ほど自作から遠ざかるとコンピューター関連の本を読んでも何のことかさっぱりわからない用語だらけとなる。

      マザーボード1
      こんなのを見ていると時の経つのも忘れるような時期もありました。

           
 昔(今でもそうかもしれない)、メーカーのサポートにかかってくる電話で(この時点で意味のわからない人もいるでしょうが、これも説明していると私の言いたいことがぼやけてしまうので我慢してください。)「お客様のコンピューター環境を教えてください。」というオペレーターの質問に対して、「西向きの四畳半にあります。」…あのね。

 また、これはちょっと有名な、よく聞く話。新聞でコンピューターウィルスが流行っているのを知ったT君のお母さん。これは一大事と、息子のT君に注意した。「Tちゃん、コンピューター触ったあとは、ちゃんと手を洗うのよ」

 またこれも結構有名な話。息子が居間で「はじめてのC」という本(C言語の解説本です)を読んでいるのを見たS君のお父さん。これは一大事と本を取り上げた。「おまえにはまだ早い!!」中身をぱらぱらめくって自分の勘違いに気づきましたが、「おまえにはまだ難しすぎる」とか言って誤魔化したとか・・・→この話がわからない生徒の諸君、君は健全です。


 「国語とどんな関係があるんじゃい。」と言われそうですが、国語の問題だって、書かれている言葉の意味がさっぱりわからないのでは問題を解く以前の問題でしょう。高校入試程度の問題ではハードルはかなり低いのですが、それでも最低限知っておかなければならない言葉というのはあります。

 四字熟語、故事成語、ことわざ、副詞の呼応(文中である語を用いると、それに応じてあとのほうで決まった語や表現が必要になる場合があります。これを呼応といいます。たとえば「決して」とあれば、あとのほうで否定を表わす「ない」が来なければなりません。)などがわかっていないと解けない問題は思った以上にあります。

 私が塾で国語の授業を本格的に始めるのは中3の夏休みからなのはこの辺りに理由があります。今書いた四字熟語、故事成語、ことわざ、副詞の呼応…、なども含め、要は語彙力の問題と言うことかな。これは一朝一夕につく力ではありません。


 この力のない人には仕方がないので、読解に必要な「ことば」を毎回少しずつ覚えてもらうことにしています。(例…曖昧、あげく、いやおうなしに、意思、意志、確信、核心、暗示、依存、多様、妙味、一線を画する、念頭に置く、普遍、妥当、象徴、体系、潜在、扇動、漸進…。まだまだ他にもいっぱいありますね。)



 次に読書が好きでありさえすれば読解力はつくかというとそれは違います。、「私、読書は好きです。」と言っても、自分が興味のあるものだけの、許容範囲の狭い読書ではこの力は充分身につきません。

「許容範囲の狭い読書って何だ」といいいますと、例えばケータイ小説などがそうなのですが、「文章が平易」であるということ。つまり「文章レベル」が低い。もう一度言い換えると、普段使っている言い回しに近いので理解が容易であると言うこと。

 またこのような文章には日常生活を日本語で送れている人であれば理解できるような語彙しか使われておらず(言い過ぎかな?)語彙力はつきません。

         ケータイ小説
         ケータイはどうも苦手なのです。おじさんですね。

 言葉足らずだったり論理が通らない展開の文章であっても、感情的に何となくわかる文。このような文はいくら読んでも読解力はつかないのです。

 この場合の読解力というのは、書いてある文章から客観的に正しく読み取ることのできることを、正確に読み取ることができる力と言うことです。

 長文になりそうです。この読解力についての詳しい話は次回にします。

2012-06-08 15:04:31

国語 その2

カテゴリ : 国語

コミュニケーション力

 語学は、日本語であれ、その他の外国語であれ、受信と発信がきちんとできるかどうか、が大事であろう。すなわち文章を正確に読み取り(受信)、また自分の意思をきちんと表現できる(発信)かどうかである。


 受信は何も文章だけに限るわけではない。人との会話で相手の意図することを理解できるのも含まれると思う。国語が苦手な人は人との意思疎通も得意ではないことが多い。最近の生徒(特に一部の男子)を見ていると特にこれができない子たちが多い。このような子たちは例外なく国語は苦手である。


 現代のように携帯電話やオンラインゲームなど、本を読むより楽に楽しめるものが溢れている時代では、なかなか本を読む習慣がつくのは難しい。まして読書は強制してやらすものではない。

 

 それでは、本を読む子はよいがそうでない子は国語力は身につかないのだと放置しておくしかないのだろうか。

 
コミュニケーション力(意思疎通力)を向上させれば国語ができるきっかけになるのではないかと思う。これには家庭の協力が大事になってくる。


 夕食の時、今日何があったかを1~3分間ぐらいで各自に言ってもらう。人によくわかってもらうように話をするのは構成をある程度考えて話さないといけないのでよい勉強になるはずだ。わかりにくい点は質問していくことが大切である。毎日やっていると段々1回でよくわかる話ができるようになるはずだ。

           家族団らん


 また家族のものが(誰でもよい)何か一つ、今日の話題を提供し、それについてどう思うかなどをみんなで話せるようになるとなお良いのではないか。話題は何でもよいが、家族全員が話に参加できるようなものがいいと思う。例えば今日は5月21日なので金環日食の話だとか、先日であれば竜巻の話とか、黄砂の話でもよい。また質問形式で話題を振ってもよい。今度の英語の先生はどうなのとか…。


 こんなことで国語の力がつくのか、と思われるかもしれないが、「相手の言っていることを的確につかむ」「まとまったことを話すようになる」ということから始めていったら、考えながら本を読めるようになる可能性が高まる。

         コミュニケーション力


※家族がそろって夕食を食べることができない、という家庭もあるかもしれません。そんなときでも集まってる人たちだけででもこのような話をしたり、家族の交換ノートを作ることを考えても良いのではないでしょうか。


 

※夕食の時間にテレビを見ている家庭も多いとは思いますが、(私の家もです…。(汗))話の時にはなるべくついていない方が良いとは思います。また食事の時ぐらいは携帯は触らないようにした方が良いでしょう。

2012-05-21 11:33:27

国語 その1

カテゴリ : 国語
ピーマン
 保護者の方と面談をすると、「うちの子、国語が苦手なんです。どうしたら国語の力がつけられるでしょうか。」という声が非常に多い。すると大抵(お恥ずかしいことに、私もそういうことが多いのですが)「読書をしなさい。」などと言われる。

 このアドバイスは、全くその通りで何も付け加えることもなさそうなのだが、よく考えてみれば、「先生うちの子、ピーマンが嫌いなんです。どうしたら食べるようになるでしょうか。」「そうですね。ピーマンを使った料理を食べたらどうですか。」と言っているのとあまり変わらない。

  あるテレビ番組で、ピーマンの苦手な人にピーマンを食べさせる、という企画があったとき、農家の人が「うちのピーマンなら、苦手な人も食べられる。」ということで、そのピーマンを食べてもらうと「美味しい。」と食べられた、というのがあった。
 
           ピーマン
           子供の頃は嫌いでした。テレビ番組とは関係ありません。
 
 これはピーマン自体が、そこら中のスーパーや八百屋にあるピーマンとは別物だったということだ。国語の力をつけさせようと思うときも国語が「美味しい」と思えるようになればどうだろうか、と考えた。つまり、誰でも『やってみたい、考えたい、面白い』と思うことのできる素材を提供して、うまく料理のできる料理人の指導の下に学習させるということだ。


 今私が読んでいる、ちくま新書の「教えることの復権」ではこのようなことを実践されていた教師とその教え子の手記や対談が、素材の例とともに紹介されている。

           教えることの復権 
           このような先生に教えてもらいたかった
                    

 ただ素材を選んだり、作り出したりするだけでもものすごく大変な上に、うまい料理人も要る。普通の学校でもおそらく不可能だ。まして学力の向上に即効性を求められ時間も限られている塾ではなおさらである。

 ここで国語というのはどういうことを目指すのかを考えて、そのような名人の助けを求めなくても何とかならないのか考えてみたい。 …ごめんなさい。これ以上長く書く時間がありません。続きは次回。
2012-05-12 09:59:40

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